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はじめに
平成13年度から平成15年度まで、母校である慶應義塾大学の司法研究室で『憲法』の講義を担当しました。思えば、自分自身が大学1年生の時、初めて憲法を勉強して、日本の国の建前はこうなっているのかとえらく感動したのを覚えています。その感動を、後輩達にも味わってもらいたいと、毎週一生懸命に準備をして講義に臨んでいました。
講義の担当は、ひとまず今年で終わりにしましたが、みなさんにも「近くて遠い」日本国憲法の一端でも知っていただきたいと思い、学生相手の講義をダイジェストで再現してみたいと思います。
なお、憲法の話というのは、各所で人権と公共の福祉がぶつかり合うので、非常に政治的な話になります。話し手によって、左右に偏った話になってしまいます。私は、毎年、最後の講義で学生達にアンケートに協力してもらい、講義の印象が権力に対し肯定的であったか、否定的であったかをモニタリングしてきました。その結果、半数の人が私は権力に肯定的であると答え、半数の人は否定的であると答えました。私ができるだけ中立的に講義をしようとしたことが功を奏した結果だと思っています。
第1話 憲法は何のためにあるか
みなさん、法律は、国民の権利、自由を守るものと考えていませんか?
例えば、「大気汚染防止法」という法律で、工場の煙突から出る有害物質の濃度を規制しているとします。すると、この法律は、確かに、工場の近くに住む住民にとっては、自分たちの生活を守ってくれるものということになるでしょう。しかし、これだけでは、物事を片面から見ていることにしかなりません。もし、あなたが工場の経営者だとしたら、この法律によって、憲法22条で保障されている「営業の自由」を制限されていることになるのです。
もう一つ、例を挙げてみましょう。「放送法」という法律は、テレビ局各局が公平で公正な放送をするよう義務づけています。これも、放送局にとっては、憲法21条で保障されている「表現の自由」を制限されていることになります。それに、いったい誰が「公平で公正」であると判断するのでしょうか。国家権力が、自分たちを批判する放送をすると「公正でない」「公平でない」と文句を言ってきたのでは、表現の自由は実質的には意味がなくなってしまいます。
このような例でも分かるように、国家権力というのは濫用され、国民の権利、自由を侵害する危険性を常に孕んでいるのです。そこで、憲法は、国家権力の濫用を防止し、国民の権利・自由を守るためにあるのです。
具体的には、憲法第3章で、法律(国家権力)によっても侵すことができない人権(基本的人権)を定めるとともに、国家権力が権限を濫用しないように、権力を分散させ、制御をするシステム(統治機構)を規定しているのです。
第2話 国家から放っておかれること
前回、人権というのは、法律(国家権力)によっても侵すことができない国民の権利・自由を規定したものであるというお話をしました。
そこで、今回は、実際に憲法がどのような人権を規定しているかを見ていきましょう。
憲法に定められた人権を大きく3つに分けると、「自由権」、「参政権」、「社会権」に分類することができます。
その中でも中心は、自由権です。自由権というのは、国家から国民が自由であること、すなわち、国民がどのような行動をとっても国家から文句を言われず、干渉されないことです。言い換えれば、これをやりなさい、あれはやっては駄目だということをいちいち口を出されないということであるともいえます。自由権は、国家から放っておかれる自由ですから、「国家からの自由」とも呼ばれています。
自由権はさらに、精神的自由権と経済的自由権に分類されます。
精神的自由権としては、国民自らどのような思想をもっても(たとえそれが反国家的な思想であっても)国家から口出しされないという「思想・良心の自由」(19条)、自らの選んだ宗教を信じ、国家から宗教を強制されないという「信教の自由」(20条)、言論、出版、放送などの内容に国家が口を出さず、自由に考えることを表現できる「表現の自由」(21条)、自らの自由なテーマについて真理を追究していく「学問の自由」(23条)が規定されています。
経済的自由権としては、自らが好きな職業を選択し、営業していく「職業選択、営業の自由」(22条)、自ら稼いだお金を自由に使い、その財産を奪われないという「財産権」(29条)が規定されています。
このように、国家が国民の行動に一切口出ししないのであれば、国家なんていらないのではないかと思われるかもしれません。しかし、人のものを盗む人、人を殺す人など、犯罪行為が行われた場合にこれを取り締まる人が必要なように、必ず国家権力が必要な場面というのも存在するのです。そこで、みなさん一人一人が、国家権力の側に自分たちの意思を反映させることができるというのが参政権です。国家権力に直接的・間接的に参加する権利であることから、参政権は「国家への自由」とも呼ばれています。
参政権には、自分たちの代表者を選ぶ「選挙権」(15条)、立候補の自由である「被選挙権」の他に、憲法改正国民投票(96条)、最高裁判所裁判官の国民審査(79条)といった規定があります。
最後に、社会権について説明しましょう。
先ほど、人権の基本は自由権であると説明したとおり、国民は一人一人好きなことを自由にでき、国家からいちいち干渉されないのが原則なのです。しかし、その結果、生まれながらハンデを負っている人や、運がない人など、社会的弱者と呼ばれる人が出てきてしまいます。資本主義社会というのは、富める者はより富み、貧しい者はより貧しくなっていくシステムでもあるのです。そして、明日食べるものもないという国民がいるのに、国家が、この人を「国家は国民に干渉しない」と言って見殺しにするのは余りにも無責任です。そこで、国家は国民に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障し、そのために必要最低限の給付を約束した、これが「生存権」(25条)なのです。具体的には、生活保護の制度などはこれにあたります。社会権というのは、国民に対し「何もしない」はずの国家が、例外的に、国民に何かを「与える」役割を果たすため、「国家による自由」とも呼ばれています。
<まとめ>
・(中心)自由権=国家からの自由
国家から放っておかれること
・参政権=国家への自由
国家へ自分の意思を反映させること
・社会権=国家による自由
国家が国民を放っておくことによって困って
しまった人を国家が助けること
第3話 公共の福祉とは何か H16.3.7 up
「公共の福祉」という言葉を聞いたことがないという人はいないでしょう。しかし、「では、公共の福祉とは何ですか」と聞かれたときに、的確に答えられる人も少ないと思います。公共の福祉という言葉は憲法12条、13条に出てくる言葉です。手元に六法がある人は、憲法の12条、13条を開いてください。
第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。
第13条
全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利につては、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
前回、人権の中心は自由権であり、国民は何をやっても自由であり、国家からそれはやってはダメだと干渉されないと書きました。しかし、本当に何でも自由で、一切の制限がないのであれば、表現の自由が認められるから、他人の名誉は傷つけ放題、ということになってしまいかねません。
そこで、人権は大切で、最大限尊重されるのだけど、それは一切無制約に認められるのではなくて、「公共の福祉に反しない限り」「公共の福祉の範囲内で」認められるのです。そして、公共の福祉というのは、人権が、他の人権と矛盾衝突するときは、その矛盾を調整しますという原理なのです。先の例でいえば、表現の自由は絶対無制限ではなく、他人の名誉権を侵害しない範囲で認められますよ(表現の自由と名誉権の衝突を調整)、ということです。
また、生存権(例えば生活保護制度)を実現するためには、当然、お金が必要です。そして、このお金は国民の負担によるものです。生存権というのは、お金をたくさん稼いだ人から国家がお金を取り上げて、お金がない人に給付するという制度なのですから、お金がない人から見れば、生存権による恩恵を与えられたことになりますが、お金をたくさん稼いだ人から見れば、財産権の制約になるわけです。つまり、財産権が公共の福祉により制約されているのです(財産権と生存権の衝突を調整)。
最後に、一番大切なことをお話ししますが、皆さんにとって何より重要なのは、人権と公共の福祉のバランス感覚なのです。人権を声高に主張して人権ばかりに偏ると、国民が自由勝手に行動することになり、国家からみれば国民の統制がとれなくなり、国としてのシステムが崩壊してしまいます。一方で、公共の福祉を重視しすぎると、公共の福祉の名の下に、国民の自由が不当に制約され、国民が国家権力により虐げられることになってしまいます。ですから、国家が国家として維持され、かつ、国民の自由を不当に制約しないという絶妙のバランスるをとるよう、憲法が要求しているのです。
公共の福祉について、少しイメージが湧きましたか?
第4話 裁判所の違憲審査基準 H16.9.19 up
前回は、人権が無制限に認められるものではなく、公共の福祉による制約を受けること、公共の福祉とは人権と他の人権が矛盾・衝突する場合に、これを調整する原理であることをお話ししました。
すなわち、法律が人権を制約する場合に、それが公共の福祉の範囲内の必要最低限の制約であれば、その法律は合憲となりますが、これを超えて必要以上の制約を国民に課すものであると、それは憲法違反で違憲・無効の法律ということになります。
では、裁判所は、どのような基準で、法律が憲法に適合するのか、それとも憲法違反なのかを判断するのでしょうか。この点については、有名な「二重の基準論」(Double Standard)という理論が用いられます。すなわち、表現の自由や信教の自由など、精神的自由権については厳格な基準(裁判所により違憲と判断されやすい)が用いられるのに対し、営業の自由や財産権のような経済的自由権については緩やかな基準(裁判所により合憲と判断されやすい)が用いられるのです。
このように説明すると、精神的自由権は経済的自由権に比べて重要な権利だから、厳格な審査基準が用いられるように勘違いする人が多いのですが、そうではありません。精神的自由権も経済的自由権も、どちらも個人の尊厳に直結する同じだけ大切な人権なのです。ただ、2つの点で性質が異なるのです。
その一つは、裁判所に十分な判断能力があるかという問題です。経済的自由権に関する問題は、お金の問題が絡んでくるものも多く、また、専門的な事項につき迅速な判断を求められるものなのです。裁判所には、十分な判断能力があるとはいえず、緩やかな審査基準を用いらざらるを得ないのです。これに対して、精神的自由権については、裁判所も比較的判断能力があるといえます。
そして、もう一つは、違憲の法律があった場合にこれを是正する機関はどこかという役割分担の視点です。仮に、経済的自由権が不当に制約される違憲の法律ができた場合、(1)国民はこれを不満に思い→(2)次の選挙ではこの法律を改正すると公約する候補者が国会議員に当選し→③このような国会議員達が新しい法律をつくるという手順を踏んで、違憲の法律は改められるのです。これを「民主制の過程による自己回復」といいます。裁判所が「法律は違憲です」と言わなくても、選挙によって勝手に法律が改正されるので、裁判所が積極的に是正しなくても政治部門に任せておけばいいのです。ところが、精神的自由権、特に表現の自由が不当に制約されてしまうと、民主制の過程の根底に傷が付いてしまいます。選挙の際、「あの法律はおかしいから改正しよう」と思っている人がいても、権力者によって表現の自由が制約され、「あの法律がおかしい」と言うこと自体を禁止されてしまうのです。その結果、法律を改正しようという国会議員が生まれてこないので、選挙をしても違憲の法律は改正されません。そこで、この場合には裁判所が積極的に違憲の法律を無効にする判決を出さなければならないのです。
このような2つの理由で、裁判所は、精神的自由権に関しては厳格な審査基準を、経済的自由権に関しては緩やかな審査基準を用いるのです。
この、役割分担の視点が、人権を理解する上でもっとも大切なことなのです。
第5話 憲法に書かれていない人権もある H17.01.04 up
新聞などで、よく、「週刊誌の記事によってプライバシー権を侵害された」などと報道されているのを見かけたことはありますよね。ところで、「プライバシー権」というのは憲法のどこを見ても書かれていません。このように、憲法に書かれていない権利も、憲法上「人権」として保障されるのでしょうか。
この点、たとえば「報道の自由」「知る権利」などは、表現の自由(憲法21条)の一内容として、「教授の自由」「大学の自治」などは、学問の自由(憲法23条)の一内容として、解釈上認めることができるのですが、「プライバシー権」「名誉権」などは、憲法上どの条文にも当てはまりそうにありません。しかし、どの条文にも当てはまらないから人権として認められないのではなくて、このような場合には、憲法13条の幸福追求権の一内容として認めるべきなのです。
すなわち、憲法が制定された時点において、その後の時代、社会の変化に伴い、価値観や権利意識が変化することをすべて想定して、あらかじめあらゆる人権を規定することは不可能です。そこで、憲法は、14条以下に具体的に規定されていない権利であっても、時代の変化に伴って人権として保障する必要性が生じた場合には、幸福追求権の一内容として保障することをあらかじめ予定していたのです。
もっとも、何でもかんでも人権として認められたのでは、不都合があります。第3話では、人権と人権がぶつかり合う時には、「公共の福祉」による制約があると紹介しましたが、新しい人権がたくさんできればそれだけ、人権同士の衝突も多数発生し、その結果、公共の福祉による制約も広くなって、既存の人権の範囲が狭くなってしまうのです。そこで、既存の人権と新しい人権のバランスをとるために、「人格的生存に必要不可欠な権利」のみ、幸福追求権の一内容として、憲法13条により、人権として保障されると考えるのが一般的です。
なお、話は変わりますが、憲法というのは、国家と国民との間の関係を規定したものですから、私人と私人との間の関係では、直接効力がありません。たとえば、芸能人が、「雑誌の記事によりプライバシー権を侵害された」と主張し、出版社は「表現の自由がある」と主張するような場面では、芸能人も出版社も私人ですから、プライバシー権の保障も、表現の自由の保障も、直接的には働かないのです。このように、私人と私人との間に憲法の効力があるかという問題を、「憲法の私人間効力」といいます。蛇足ですが、「私人間効力」というのは、「しじんかんこうりょく」と読みます。大学時代、友人から、電話で「しにんげんこうりょく」について教えてくれと頼まれ、何のことだかさっぱり分からなかった経験があります。
第6話 人権と統治機構の関係 H17.1.12 up
憲法には大きく分けて、前回までお話ししてきた「人権」と、今回からお話しする「統治」が規定されています。表現の自由や生存権などの「人権」と、国会・内閣・裁判所などの「統治機構」が、どうして憲法の中に一緒に書かれているのか、疑問に思っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし、実際は、「人権」と「統治」は、切っても切れない関係にあるのです。
第1話でお話ししたことを思い出していただきたいのですが、そもそも、憲法というのは、国家権力の濫用から国民の権利・自由を守るために存在するのです。そして、一方では、国家権力によっても侵すことができない国民の権利として「人権」を定めるとともに、もう一方では、国家権力が濫用されないようなシステムをあらかじめ作り、「統治機構」として規定したのです。
統治の核となるのは「三権分立」です。この言葉は、皆さん一度ならずとも聞いたことがあると思います。そして、三権分立というのは、立法権を国会に、行政権を内閣に、司法権を裁判所に担当させ、権力を分散させることだけに主眼があるのではありません。それだけでなく、立法・行政・司法の各権力作用を国会・内閣・司法の各機関に担当させた上で、国会は内閣と裁判所を、内閣は国会と裁判所を、裁判所は国会と内閣をという具合に、他の機関が、自分の受け持ち以外のことをやって権限を逸脱していないか、権力を濫用していないか、お互いにチェックをし、牽制しあうことによって、どの国家権力も権限の濫用をしないようにしているのです。その結果、国民の権利や自由が守られることになります。
そもそも、優秀で良心的な国王がいるのであれば、その国王が独裁政治を行い、法律を作るのも、外交も、裁判も、すべてその人が行えば、それがもっとも効率が良い国家統治の方法であり、すべての国民が納得するはずです(税金により、何百人もの国会議員に、高い給料を支払わずに済みます!!)。しかし、国家権力が集中すると、必ずその権力は濫用されることは、これまでの歴史が如実に物語っています。そこで、国家権力はできるだけ分散させるとともに、お互いをチェックさせ、牽制させあうシステムこそが、国民の自由を守る最適な手段であるとされているのです。
憲法は「人権」と「統治機構」を別々に規定したのではなく、「人権」を守るために「統治機構」を規定したということが、お分かりいただけましたか?
第7話 国会議員は誰のために働くのか H17.3.6up
国会は、選挙で選ばれた国民の代表者たる国会議員が集まり、法律を作ることを主な仕事としています。第1話でお話しした通り、法律というのは、国民の権利を守るものではなく、国民の自由を制約するものなのです。そこで、その制約が必要以上に大きくならないように、国民自身の代表者に法律を作らせるのです。自分たちの手で自分たちの制約を作るのであれば、必要以上に高速の強い制約は作らないからです。このように、自分たちの手で自分たちのことを決めることを「治者と被治者の自同性」といいます。
国民が、自分たちの意見(民意)を国会に反映させるために役立っているのが政党です。選挙の際、国民が、すべての国会議員の候補者の考え方や公約を把握し、どの候補者がいいかを判断するのはなかなか難しいのです。しかし、「この候補者は●●党の所属だから、消費税増税には反対だろう」とか、「あの候補者は▲▲党の所属だから、年金制度改革には賛成だろう」といったように、所属の政党を見れば、その候補者の大まかな政策が分かるのです。その結果、国民の多数が消費税増税に反対であれば●●党が多数の議席を獲得しますし、国民が年金制度改革人反対であれば、▲▲党の議席は伸びないことになります。
このようにして選出された国会議員ですから、国会の役割としては、当然、国民の民意を国家政策に忠実に反映させるという使命(「民意の反映」)があります。しかし、国会には、この民意の反映とともにもう1つ、大切な役割があります。それは、「統一的国家意思の形成」です。日本国民の民意というのは、1つではなく、北は北海道から南は沖縄まで様々な民意があります。その中で、どの政策をとるのが国のためにもっともいいのかを議論し、最終的に様々な国民の意思の中から、1つの国会の意思を選ぶ(「民意の統合」)のです。
考えてみてもらいたいのですが、国会の議論の中で、北海道選出の議員はいつまでも北海道の利益になることばかりを主張し、東京選出の議員がいつまでも東京の利益になることばかりを主張していては、いつまでたっても統一的国家意思は形成できません。北海道の議員も、東京の議員も、日本国民の代表であって、地元のためではなく、「日本のために」何がいいかを考えなければならないのです。
憲法43条1項が、両議院は、「全国民」を代表する選挙された議員でこれを組織すると規定されているのは、この趣旨からなのです。
第8話 首相公選制 H17.3.12up
世論調査の発表で、内閣支持率というのがありますね。過去のデータを調べてみると、1987年以降、支持率が50パーセントを超えた内閣は、1990年の海部内閣(51.7%)、1993年8月の細川内閣(69.6%)、1996年1月の橋本内閣(54.3%)、そして2001年6月の小泉内閣(85%)の4人の首相しかいないことが分かりました。逆に、支持率が低かったのは、1989年3月の竹下内閣(13.1%)、1989年6月の宇野内閣(16.7%)、1993年6月の宮沢内閣(5.8%)、2001年2月の森内閣(15.7%)などが目立ちます。現在の小泉内閣も、支持率は40%前後のようです。
ところで、憲法67条1項は、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」と規定しています。国民による選挙で国会議員が選ばれ、国会議員の多数決で内閣総理大臣が選ばれるのですから、内閣総理大臣は、国民の代表中の代表であり、支持率は、50%を超えるのが当たり前で、10%台などという現象はおかしいと思いませんか。これは、「この人は悪い、この政策は悪い」などと、批判はするのに、「代わりにこの人にすべきだ」とか、「代わりにこの政策をとるべきだ」などという意見を持たない日本人の気質が影響しているのかもしれません。マスコミも、首相や国会議員のスキャンダルを取り上げたり、増税に反対する報道には積極的なのに、自らの支持政党は明らかにしないし、「増税しないなら、どのようにして財源を確保すればいいのか」という問題には口をつぐんでしまうのです。
さて、内閣の支持率が低いのであれば、内閣総理大臣を、国民自らが投票で決めればいいのではないかと思いついた方もいるのではないでしょうか。実際に、国民の投票によって国の主(あるじ)を決める大統領制をとる国も数多くあり、我が国でも首相公選制の話がないわけではありません。では、なぜ、日本国憲法は、内閣総理大臣を国民の選挙で選ばず、国会の議決で決めるものとしたのでしょうか。
それは、内閣、すなわち行政権に、国民の「少数意見」も反映されるように配慮したためなのです。仮に、内閣のトップを国民の投票で決めると、行政には国民の多数意見しか反映されず、少数意見は切り捨てられることになります。しかし、前回お話しした通り、国会議員というのは「全国民の代表」であって、国会というのは、自分の意見が多数意見か、少数意見かにとらわれず、国のために何がいいのかということを、自由に議論できる場なのです。このように、国民の多数決による生の民意を直接行政に反映させず、国会での議論というワンクッションを置くことによって、少数意見にも考慮した「マイルドになった民意」が行政に反映されることになるのです。
第9話 司法の独立 H17.4.9up
立法権の担い手である国会議員は、国民の多数決である選挙で決まりますし、行政権のトップである内閣総理大臣は、その国会議員達の多数決で決まります。ところが、司法権の担い手である裁判官は、国民が自らの手で選びませんね。これがなぜだか分かりますか?
これは、それぞれの国家機関が担う役割の違いによるものなのです。すなわち、国会および内閣は、国民の多数意見を拾い上げ、その民意に沿った国家の運営を期待されています。しかし、多数決のみですべての事柄を決めてしまうと、「多くの人がこう考えているのだから、少数意見は無視しよう」ということになりかねず、少数者の人権が侵害されてしまうのです。そこで、裁判所は人権保障の最後の砦として、多数決によっても侵害できない人権を擁護する役割を果たすのです。
このような意味で、裁判所は、民意からは一歩引いた場所にいる必要があります。これを司法の独立といいます。具体的には、「裁判官は、良心に従い独立してその職権を行い、憲法および法律にのみ拘束される」(76条3項)とされ、心身の故障の場合を除いて罷免されず(78条)、相当額の報酬を受けることが保障されている(80条)など、裁判官が民意を気にせず、自らの良心と憲法、法律のみによって、自由で公正な判断ができるようにしているのです。
もっとも、裁判官といえども、司法権という「国家権力」の一翼を担っているのですから、国民によるコントロールが一切及ばないのでは、裁判官が暴走してしまう(独善化)おそれがないわけではありません。そこで、憲法は、一定レベルまでは、司法権にも民意を反映させる制度を取り入れています。国会による弾劾裁判(64条、78条)や最高裁判所の裁判官の国民審査(79条)、内閣に裁判官の任命権があること(80条1項)などがこれにあたります。平成21年までにはスタートする「裁判員制度」も、国民が司法権に参加する制度の一つです。
しかし、多数者の人権は、多数決原理の働く立法権と行政権によって守られていくのであり、司法権は少数者の人権を擁護する最後の砦であることを忘れてはなりません。司法権に対して民意の反映はむしろ抑制的であることが原則なのです。
=憲法のお話 終わり=








